清掃活動と脳内活動

伏見区主催の城南宮周辺の清掃活動に参加。

朝9:30に単身自転車で城南宮に乗り込む。
既に主催者側から、活動の趣旨説明やら、挨拶が始まっていた。
なんと、9:00から開始だと勘違いした人たちが多く、時間を繰り上げたらしい。
参加者は300人位かな。
その中で知ってる人は、京都府会議員の方くらいだ。(醍醐に事務所を構える女性の方)
というわけで、一人でまじめにコツコツとゴミ拾いをすることになった。
本来は、大勢の中でゴミ拾いをするのは結構楽しい。なぜなら、ゴミ拾いに競争の要素が加わるからだ。
人より多くゴミを拾って、ゴミ袋をいっぱいにしたくなる。
しかし今回は、周りに人がいない、団体が僕と違う場所に進んだからだ。
黙々とやるのは最初はつらかった。テキトーに終わらそうと思った。
しかし、やっているうちに中々いい心理状態になって行き、思考がいろいろとめぐり始めた。
その時に〈考えたこと〉
1.孤独はなかなかいいもんだ。
 人と話しているときと違って、自分と話ができるから、いろいろと考えられる。
2.路上に捨てられたたばこの吸殻をすべてJTに送り返してはどうだろうか。
 だって、町が汚れるのはJTがたばこを売ったからでしょう。(暴論)
3.たばこ税の仕組みを変える。
 路上に落ちているたばこの吸殻ゴミの量によって、毎年のたばこ税率を変えてはどうか。
路上にたばこの吸殻が落ちていたら、たばこの値段があがるので、
ポイ捨てする人が少なくなったり、お互いに注意しあえたりするし、町がきれいになると思った。
ポイ捨ての量を調査するコストさえクリアできれば、実現可能?
4.ゴミ拾いなど社会貢献する人がもっとモテたりする社会になればいいのにって思った。
 社会貢献する人=かっこいい、って言う価値観にできたらなぁ。
たとえば「ゴミ拾い」のことをかっこいい呼び名にするとかね、
ディズニーランドでは掃除する人を「カストーディアル」って呼んで、制服もかっこいい。
だから、「町のゴミ拾いする人」を「シティクルセイダー」って呼ぶとかどう?
逆に「暴走族」とか「不良」とかを「愛情不足」って呼ぶべきやと提唱しています。
以上〈考えたこと〉

そんな、充実したゴミ拾いでした。
参加方法は市民新聞の情報を見て、集合時間に現地に駆けつけるだけです。
こんど一緒にやりませんか?